koruritsumugi’s diary

五十路の日々をぽつぽつ綴ろうと思います。

デリケートな話

こんばんは。koruri です。

 

子どものママ友から久しぶりに連絡があり。その後お茶をしてきたんだけど、「もしかしたら」と予測していた展開になり、心の中で大きなため息をつきつつ、話を聞いて、お暇しました。いや、近況報告は楽しかったんだけどね。

 

世の中にいろいろな宗教があるかぎり、宗教勧誘はどこにでもある。

自分の信仰している宗教が正しいと皆思っている。

だから宗教戦争は起こるし、自分の信仰以外の信仰を正以外のものと考える。

 

私は、自分がそれを判定する立場ではないし、判定しようとは思わない。

だから、「あなたの信じているものは間違えている」と断言されると、「その自信はどこからくるのかなぁ」と若干の不快感とともに考える。

 

私は特に信仰している宗教はない。母と母方の祖母は信仰を持っている。幸い強要はされていない。(経験のひとつとしてはあったし、母は父に許可を得たときは活動に参加していた。) 個人的には、その宗教の信仰でよいとも思うし、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけ。

 

ケアマネという仕事柄、担当している利用者さんの信仰の話をたまに聞くことがある。

今まで一番多かったのは学会。他にキリスト教(カトリック)、エホバの証人立正佼成会、浄土宗、真宗天理教…といろいろ。

幸い、押しつける訳でなく「こういう考えをするんだよね」「この日はこういう行事があるので、デイはお休みします」とさらりと教えてくださる人ばかりだし、今もそう。

私から深くは入らない。ただ、今後の生活の大事な一部分だな、と感じた場合は折をみて確認することもある。

 

生きていれば皆死ぬ。それは変わらない。

どんな信仰をしていても、もしそれが本人を幸せにして、その幸せを何かしらの形で周囲の人に分けられて、周囲の人の幸せに寄与しているなら、それでよいと思っている。

どんな仏様や神様を信じたとしても。

信仰はその人を形成するひとつの要素で、それがその人全てを表す訳ではない。

それと、どんな命も命であって、それについての重みはどんないきものでも変わらない。

風の谷のナウシカ』の原作の中で、ナウシカが墓の主に言った「巨大な墓や下僕などなくとも 私達は世界の美しさと残酷さを知ることができる     私達の神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ」が私にはぴったりくる。

 

友人の話を聞きながら、そんなことを思った。

 

それと。

今まで宗教勧誘してきた人とは縁を切っていたが、今回の友人とは縁を切りたくないので、次に会うときは「信仰の話はナシでね」とひとこと加えることにした。けれどうまくいかないとも思うので、静かにフェードアウトする方がいいかなとも考えている。

 

それでは、またね。

 

koruri